鏡餅
作者:宮本百合子 約12分で読めます
正面のドアを押して入ると、すぐのところで三和土の床へ水をぶちまけ、シュッシュ、シュッシュと洗っている白シャツ、黒ズボンの若い男にぶつかりそうになった。サエは小使いだと思ったらそうではなく、そういう風体でそのへんにハタキをかけたり、椅子を動かしたり動きまわっているのは、制服の上衣をぬいだ巡査であった。 大きい包みを下げて二階へ上って見ると、ここもまたコンクリートの床は草履のふみどころもないほど水びしゃびしゃで、特高室のドアがあけはなされてある。 入って行くと、テーブルの上に脚を空に向けて椅子が積んである。特高主任は禿げた頭に頬かぶりをし、鼻と口とを手拭いでつつんでいるし、もう一人別な背の高いのが、 「これもとっちゃった方がいいですね」 と云いながら顎を上向け、よごれた指のあとをつけまいと小指をピンとはねて自分のダブル・カラーをはずしかけている。特高室の誰も彼も上着をぬぎ、チョッキにワイシャツ姿である。 その日は暮の三十一日で警察ではどこでもかしこでも正月の支度だった。 サエは、 「おやおやわるいところへ来た」 そう云いながら、室内に入り、 「――どうでしょう――まだ駄目ですか」 もっている風呂敷包みを椅子の逆さにのっているテーブルの端に置いた。 「――本庁へきいて下さい。こっちでやったことじゃないんだからね。こっちじゃ分らないから――行きましたか」 「こっちできいて駄目だと云うとき、私の方でヤイヤイ云ってもききめがないと思うんです……もう五日も経つんだからいいんじゃないかしら――着物ですからね、口を利くわけじゃないし……」 すると、わきから黒チョッキの男が、 「誰へ差入れたいんです?」 ときいた。 「石崎です」 「本庁へききなさい、本庁がやっていることで、こっちじゃわかりませんよ」 急にパタパタ、サエの髪の近くでハタキをかけはじめた。夫の石崎が検束されたことを新聞でサエがはじめて知ったのは四日前の夜であった。直ぐその晩行ったが突きかえされ、翌日も突きかえされこれで三度目なのであった。 「じゃ、ちょっと待って下さい」 主任が出て行った。あとの連中は盛に大掃除をはじめ、 「ヤ、御免」 とか、 「ごみがかかるよ」 とか、コートを着てそこに立っているサエのまわりをわざと邪魔そうにまわった。 主任は間もなく帰って来て、 「どうして、なかなかそれどころじゃな
底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card1989.html)