猿
作者:宮本百合子 約8分で読めます
人 物 ヨハネス (十八歳) エッダ (十六歳) エッダの母親 (四十歳前後)
場 所 デンマークの片田舎
時 或る秋
幕開く
第一 エッダの家の中 下手に、大きな鉄の蝶番の付いた木の大扉、開け放してあり、傍の壁の三段の棚の上には、上部に大小の皿、下段には、鑵、硝子瓶その他、料理用の小道具が置いてある。 直ぐ前が、石塊で囲んだ炉、鋸歯のような自在鍵から、円い煮物鍋が下っている。 椅子、薪木入等。 上手には、頑丈な、手彫模様のついた木製の長卓子、腰掛、櫃等置かれている。 正面の素朴な硝子窓から、透明な黄昏の光が部屋に入り、横顔を浮上らせながら、エッダ、白い後までまわる大前掛けをし、くるりと髪を包む頭巾をかぶって、糸車を廻している。母親、チロチロと小さい焔の見える炉辺で、縫物をする。暫く沈黙。―― やがて、
エッダ 阿母さん! 母親 何だい?(縫物の手を動かしたまま) エッダ ヨハンがおそいね。……どうしたんだろう。 母親 ――あの子のことだから、また、野っ原に仰向いて、雲でも見ながら、腹の空くのを忘れているんだろう。――大丈夫だよ。 エッダ ……(糸車の音が、四辺に響く)だってもね、阿母さん。ヨハンはきっとどうかしていてよ、私が、ちゃんとこの胸で感じるんだもの。 母親 (笑い)お前の胸かえ? 要心おしよ、小さい娘っ子の胸と―― エッダ (強く)厭なの! そうじゃないさ。ヨハンは、死んだあの子のお父さんやお母さんを、このごろ頻りに思い出しているって云うのよ。 母親 (しんみりと)そうかえ? そんな風かえ?――可愛そうにね。……然し、思い出すに種もなかろうよ。何しろ、生れてたった五十日目に、死なれてしまったんだもの。 エッダ それあ、あの子は自分で何も覚えてはいないわ。でも、他人が云うんだもの――ヨハンが、自分が孤児で、阿母さん阿父さんがほんとの親でないのを知ったのだって、ハンスの婆さんに聞いたからよ。――(声を潜め)あの子の阿父さんが、狂って死んだってほんと? 阿母さんを捕まえて、泣いて逃げるのを、むりやり河へ突陥めたって……ほんと? 母親 (身震いをし)止めておくれ。厭な話だ。――けれどもほんとはほんとだよ。阿父さんも、阿母んも、私達二人の若い時っからの友達で、一緒に踊ったり、氷の上を滑ったり……。楽
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2023.html)