春昼
作者:泉鏡花 約54分で読めます
一
「お爺さん、お爺さん。」 「はあ、私けえ。」 と、一言で直ぐ応じたのも、四辺が静かで他には誰もいなかった所為であろう。そうでないと、その皺だらけな額に、顱巻を緩くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色で、長閑かに鍬を使う様子が――あのまたその下の柔な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅の夕陽の中に、ひらひらと入って行きそうな――暖い桃の花を、燃え立つばかり揺ぶって頻に囀っている鳥の音こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付きそうもない、恍惚とした形であった。 こっちもこっちで、かくたちどころに返答されると思ったら、声を懸けるのじゃなかったかも知れぬ。 何為なら、さて更めて言うことが些と取り留めのない次第なので。本来ならこの散策子が、そのぶらぶら歩行の手すさびに、近頃買求めた安直な杖を、真直に路に立てて、鎌倉の方へ倒れたら爺を呼ぼう、逗子の方へ寝たら黙って置こう、とそれでも事は済んだのである。 多分は聞えまい、聞えなければ、そのまま通り過ぎる分。余計な世話だけれども、黙きりも些と気になった処。響の応ずるが如きその、(はあ、私けえ)には、聊か不意を打たれた仕誼。 「ああ、お爺さん。」 と低い四目垣へ一足寄ると、ゆっくりと腰をのして、背後へよいとこさと反るように伸びた。親仁との間は、隔てる草も別になかった。三筋ばかり耕やされた土が、勢込んで、むくむくと湧き立つような快活な香を籠めて、しかも寂寞とあるのみで。勿論、根を抜かれた、肥料になる、青々と粉を吹いたそら豆の芽生に交って、紫雲英もちらほら見えたけれども。 鳥打に手をかけて、 「つかんことを聞くがね、お前さんは何じゃないかい、この、其処の角屋敷の内の人じゃないかい。」 親仁はのそりと向直って、皺だらけの顔に一杯の日当り、桃の花に影がさしたその色に対して、打向うその方の屋根の甍は、白昼青麦を烘る空に高い。 「あの家のかね。」 「その二階のさ。」 「いんえ、違います。」 と、いうことは素気ないが、話を振切るつもりではなさそうで、肩を一ツ揺りながら、鍬の柄を返して地についてこっちの顔を見た。 「そうかい、いや、お邪魔をしたね、」 これを機に、分れようとすると、片手で顱巻を挘り取って、 「どうしまして、邪魔も何もござりまし
底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫
入力:小林繁雄 校正:平野彩子、土屋隆
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card2296.html)