労働者の居ない船
作者:葉山嘉樹 約16分で読めます
こう云う船だった。 北海道から、横浜へ向って航行する時は、金華山の燈台は、どうしたって右舷に見なければならない。 第三金時丸――強そうな名前だ――は、三十分前に、金華山の燈台を右に見て通った。 海は中どころだった。凪いでると云うんでもないし、暴化てる訳でもなかった。 三十分後に第三金時丸の舵手は、左に燈台を見た。 コムパスは、南西を指していた。ところが、そんな処に、島はない筈であった。 コーターマスターは、メーツに、「どうもおかしい」旨を告げた。 メーツは、ブリッジで、涼風に吹かれながら、ソーファーに眠っていたが、起き上って来て、 「どうしたんだ」 「左舷に燈台が見えますが」 「又、一時間損をしたな」と、メーツは答えて、コムパスを力一杯、蹴飛ばした。 コンパスは、グルっと廻って、北東を指した。 第三金時丸は、こうして時々、千本桜の軍内のように、「行きつ戻りつ」するのであった。コムパスが傷んでいたんだ。 又、彼女が、ドックに入ることがある。セイラーは、カンカン・ハマーで、彼女の垢にまみれた胴の掃除をする。 あんまり強く、按摩をすると、彼女の胴体には穴が明くのであった。それほど、彼女の皮膚は腐っていたのだ。 だが、世界中の「正義なる国家」が連盟して、ただ一つの「不正なる軍国主義的国家」を、やっつけている、船舶好況時代であったから、彼女は立ち上ったのだった。 彼女は、資本主義のアルコールで元気をつけて歩き出した。 こんな風だったから、瀬戸内海などを航行する時、後ろから追い抜こうとする旅客船や、前方から来る汽船や、帆船など、第三金時丸を見ると、厄病神にでも出会ったように、慄え上ってしまった。 彼女は全く酔っ払いだった。彼女の、コムパスは酔眼朦朧たるものであり、彼女の足は蹌々踉々として、天下の大道を横行闊歩したのだ。 素面の者は、質の悪い酔っ払いには相手になっていられない。皆が除けて通るのであった。 彼女は、瀬戸内海を傍若無人に通り抜けた。――尤も、コーターマスター達は、神経衰弱になるほど骨を折った。ギアー(舵器)を廻してから三十分もして方向が利いて来ると云うのだから、瀬戸中で打つからなかったのは、奇蹟だと云ってもよかった。―― 彼女は三池港で、船艙一杯に石炭を積んだ。行く先はマニラだった。 船長、機関長、を初めとして、水夫長、火夫長、
底本:「日本プロレタリア文学全集・8 葉山嘉樹集」新日本出版社
入力:林幸雄 校正:伊藤時也
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000031/card2936.html)