春桃
作者:宮本百合子 約18分で読めます
一
情報局、出版会という役所が、どんどん良い本を追っぱらって、悪書を天下に氾濫させた時代があった。日配が、それらのくだらない本を、束にして、配給して各書店の空虚な棚を埋めさせた。今から三年ばかり前は、その絶頂であった。本らしい本をさがす心と眼とは、駄本の列の上に憤りをもって走ったのであった。 そういう時期に、都電が故障した偶然から、神明町のわきの本屋へ入った。何心なく見まわしていたら、「春桃」中国文学研究会編という一冊が目にとまった。 その赤い文字の「春桃」という題を特別な気持で見たのには、いわれがあった。ざっと一ヵ月も前のことであったろう。護国寺わきの本屋に、この「春桃」が例により十何冊が一束げになって棚に並べられていた。そうもどっさり無感興に並んで、「米鬼を殺せ」という風な本の間にはさまれていては「春桃」という文字が訴える情趣もそがれている。わたしは、惰性めいた微かな反撥の気分のまま、この赤い二つの文字も通りすぎてしまった。 たった一冊「春桃」と、今は、はっきり読める本を見た刹那、護国寺の本屋のことがすぐ思い浮んだ。全く違う好奇心を感じた。ぬき出してみると、その「春桃」は新本ではなく、誰かが金沢市の本屋で買ったものであった。そして、この本屋かどこかへ、売ったものである。そのことにも、一種の懐しみがある。買って帰って来た。 中国文学研究会という集りに対しては、随分古くから、ぼんやりした興味と期待とをよせていた。私たちの精神のなかには、所謂漢文学者を通してでない中国文学を知りたい欲望が非常につよい。現代中国文学の相貌について、深い関心が潜んでいる。その文学が、私共にも読めそうでいて、実は読めない。なまじ、魯迅を知り、魯迅の文学論を読む機会があっただけ、そしてエドガア・スノウの「支那の上の赤い星」の描写が刻みつけられているだけ、この自分でも読めそうで読めない現代中国文学は、不断の魅力となっているのである。 「春桃」は昭和十四年に支那現代文学叢書第一輯として出されたものである。七篇の作品が収められている。落華生「春桃」、冰心女士「超人」「うつしえ」、葉紹鈞「稲草人」「古代英雄の石像」、郭沫若「黒猫」「自叙伝」等である。 これら七篇の作品を読み、一貫してつよく心を打たれたのは、これらの中国の作家たちはおそらく小説で飯をたべてはいまい、とい
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2961.html)