雨の山吹
作者:山本周五郎 約28分で読めます
一
母の病間をみまってから兄の部屋へゆくと、兄も寝床の上で医者と話していた。医者はすぐに帰り、兄は横になった。 「どうなさいました」 「ちょっと胃のぐあいが悪いんだ」兵庫は眉をしかめた、「――四五日よく眠れなかったところへ、いやな事が起こって、ゆうべちょっと酒をすごしたのがいけなかったらしい、明け方に血のようなものを吐いた」 もとから痩せていたほうだが、そう云われて見ると頬がこけ、眼がくぼんで、血色もひどく悪い。唇が乾くとみえて、頻りに舐めるが、その舌の色も悪かった。 「貴方が酒をすごすとは珍しいじゃありませんか、いったいなにがあったんです」 兵庫は枕の下から封書を出して、黙って弟に渡した。ひらいてある手紙で、宛名は兵庫、裏には汝生という妹の名が書いてあった。 「汝生がどうかしたんですか」 「読んでごらん」 又三郎はひらいてみた。かなり長いものであり、まったく意外な文面であった。彼はそれを二度読み返した。 こんどの縁談でいろいろ心配をかけたが、自分はどうしても嫁にはゆけない、西牧という人に不満があるのではなく、自分の身にとつぐことのできないわけがあるのである。五歳のとき孤児になり、葛西家にひきとられてから、御両親にも兄さまたちにも、しんじつ肉親のように可愛がられて来た。その御恩と義理を思えば耐え難いが、縁談はもう断われなくなったし、とつぐわけにもゆかず、身の処置に窮したので、死ぬ決心をした。御病床の母上や兄上さまたちはさぞお怒りであろう、西牧という方にも相済まないが、ほかに思案がなかった、愚かなやつだと思ってゆるして頂きたい。一日も早く母上が御恢復なさるよう、また御一家の幸福と御繁昌を祈っている。――つまり遺書であった。 「いつのことですか、これは」 又三郎は兄を見た。それから封書の裏に、小松町柊屋と書いてあるのを読んだ。 「ここに小松町とありますが」 「文代が来る、聞かれては困るんだ」 兵庫が云った。又三郎は手紙を巻いた。あによめの文代が、茶を持ってはいって来た。嫁して五年になるが、こんど初めて妊娠し、帯の祝いをしたばかりである。健康そうに肥えて、膚も艶やかに色づき、眼にはおちつきと満足感があふれているようにみえた。……彼女はあいそよく三浦のようすを訊き、さも済まなそうに云った。 「御用も多いでしょうに、とんだ事をお願いして申し訳ございません」 「
底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
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