しぐれ傘

作者:山本周五郎 約19分で読めます

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鯉の宗七

一

佐野屋藤吉は、女房の酌で朝酒を呑んでいた。  いつも四、五杯で機嫌よく酔うのが、今朝はもう二本めをあけようとしているのに、髭の剃跡の青い固肥りのした顔は妙に冴えて、「眼玉の藤吉」と綽名のついている大きな両眼は、さっきから店の方を睨んではぎらぎら光っていた。 「なんだ、もう無えのか」 「あがるんですか」 「もう一本つけてくれ。いいからつけてくれ。なんだか酔いそびれて踏んぎりがつかなくっていけねえ」  女房のおかねは気遣わしそうに、亭主の横顔をそっと見た。  むっつりと、変に気の詰った調子で三本めを呑み始めると間もなく、弟子の六造がやって来た。 「親方、川口町が見えました」 「此処へ通してくれ」  そう云って藤吉は、女房に振り返った。 「おめえ二階へ行っていねえ」 「だって親方」 「いけねえ、おめえに側から口出しをされちゃあ話の筋が通らねえ、行っててくれ」 「では外しましょう、けれど親方」  おかねは素直に立ちながら「宗七はあの通りの気質で口下手だから、頭ごなしに叱っちゃあ駄目ですよ、あれにもなにか考えのあることでしょうから……」 「それが余計なことだと云うんだ、いいから行きねえ」  藤吉は手酌で酒を注いだ。  おかねが二階へ去ると、入れ違いに、二十七、八になる若者が入って来た。……色の褪めた紺縞木綿の袷に、やまのいった小倉の帯を緊めている。額の広い顎の張った逞しい顔だが、ひどく蒼白めていて、ひと口に云うと、極度の神経消耗を思わせるが、その眼だけは深く潜んだ鋭い意力を湛えていた。  名は宗七、今江戸で鯉の木彫の名人と呼ばれている男だ。……口重に挨拶をして、 「唯今はお使いでございましたが」 「ちょいと話があって来て貰った。手間を欠かして済まなかったな」 「いえなに、このところ暫くぶらぶらしているものですから」 「そうか遊んでるのか」 「遊んでるという訳でもありませんが」 「まあいいや、ひとつどうだ」  藤吉は盃を洗って差出した。 「有難うございますが、実は断っているもんですから……どうか」 「断っている? へええ、なにか願掛けか」 「なに……願というほどのことでもありませんが」  藤吉は黙って手酌で一杯呷った。  それから、手に盃を持ったまま何気ない様子で相手を見た。 「実あな宗七」 「…………」 「おらあ昨夜、石町の富田屋さんに呼ばれて行って来た。

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底本:「人情武士道」新潮文庫、新潮社
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)