酒・杯・徳利
作者:山本周五郎 約7分で読めます
荒廃した田舎家の中だ。 半漁半農の村だから、数年前までは恐らく一番貧しい漁夫の棲家だったに相違ない。藁葺屋根はなかば腐れ、荒木田の壁は崩れ、天井板も柱も黒く煤け、二段になっている造り付けの戸納の戸は欠け、畳はみるかげもなく脆けて、歩くたびに床板の軋む音がする。 部屋はひと間きりない、土間が広くとってあるのは、以前そこに竈を据えたり、漁具を置いたり、雨降りのとき子供の遊び場にしたりしたものであろう、今はその隅に罅のいった焜爈と土鍋とバケツと、みじめな釣り道具とが置いてある。部屋の上框には障子がないので、広い土間から直に雨戸だ、その雨戸も欠けたり釘が抜けたりしているので、風は自由に吹き通るし、月明りの窺うにも不便はない。
夜半である。 燭光の弱い電燈が、壁に近くひとつぼんやりと光っている。光を辿ってゆくと大きな手製の書架がある、五つ並んでいるがいずれも乱雑に書冊で埋まっている、脆けた畳の上にも、腰高窓の障子のない敷居の上にも、手当たり次第に投げ出したままの書物が始末しようのないほど散らばっている。大きな、畳一帖ほどもある書きもの机が、書架と書架との間にあって、一人の貧相な青年が、せっせと何か書いている。部屋の中も同様に机の上も混乱している、書き損じの紙をまるめたのが、屑籠をぶちまけたようにころがっていて、雨戸から風が吹き込んで来るたびにかさこそと音を立てる。 青年はふとペンを措いて、右側にある大きな安物の瀬戸の火鉢へ手をかざした。節くれだった指はぶざまにインクに汚れ、寒気のために凍えてふるふると顫えている。火鉢には小さなニュームの鍋がかかっていて、さっきから温たかい湯気をたて、鮒を煑る味噌の匂いをいっぱいに部屋へまきちらしている。 「さて――」 と青年は呟いた。そして手を火鉢へかざしたまま、頭をめぐらせて荒凉たる部屋の内を見廻わした。何もない――、一瞬、青年の眼に絶望の色が表われた。 「ああ、何ということだ、何も見えない、寒い、がらん洞だ、何も聞こえない」 青年は額へ垂れさがっている髪毛を掴んだ、それから眼を閉じて机の上へ俯伏せになった。風が雨戸を音高く叩いて過ぎた。 火鉢の上で鍋はことことと煑えたぎっている、雨戸の欠けたところや、板の寄った隙間から、月の光が条をなして流れこみ、広い土間から上框まで伸びている、堤の彼方から、氷った河が凍み割れるのであ
底本:「暗がりの弁当」河出文庫、河出書房新社
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