母
作者:芥川龍之介 約15分で読めます
一
部屋の隅に据えた姿見には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海特有の旅館の二階が、一部分はっきり映っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳かの畳、最後にこちらへ後を見せた、西洋髪の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物か何かしているらしい。 もっとも後は向いたと云う条、地味な銘仙の羽織の肩には、崩れかかった前髪のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透いたのも見える。やや長めな揉み上げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。 「あなた。」 そう云う何分かが過ぎ去った後、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束なさそうに、こう誰かへ声をかけた。 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前を羽織った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々と腹這いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。 「あなた。」 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」 男は幾分うるさそうに、丸々と肥った、口髭の短い、活動家らしい頭を擡げた。 「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」 「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜、引っ越して来たばかりじゃないか?」 男の顔はけげんそうだった。 「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明いているでしょう?」 男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥げた窓側の壁には、色の変った畳の上に更紗の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵が、薄い埃をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町に、麦藁帽をかぶった支那の車夫が、所在なさそうにうろついている。……… 「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌だ嫌だと云っていたじゃないか?」 「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまた
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:もりみつじゅんじ
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card41.html)