開化の良人
作者:芥川龍之介 約27分で読めます
いつぞや上野の博物館で、明治初期の文明に関する展覧会が開かれていた時の事である。ある曇った日の午後、私はその展覧会の各室を一々叮嚀に見て歩いて、ようやく当時の版画が陳列されている、最後の一室へはいった時、そこの硝子戸棚の前へ立って、古ぼけた何枚かの銅版画を眺めている一人の紳士が眼にはいった。紳士は背のすらっとした、どこか花車な所のある老人で、折目の正しい黒ずくめの洋服に、上品な山高帽をかぶっていた。私はこの姿を一目見ると、すぐにそれが四五日前に、ある会合の席上で紹介された本多子爵だと云う事に気がついた。が、近づきになって間もない私も、子爵の交際嫌いな性質は、以前からよく承知していたから、咄嗟の間、側へ行って挨拶したものかどうかを決しかねた。すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、徐にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭に掩われた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」と柔しい声で会釈をした。私はかすかな心の寛ぎを感じて、無言のまま、叮嚀にその会釈を返しながら、そっと子爵の側へ歩を移した。 本多子爵は壮年時代の美貌が、まだ暮方の光の如く肉の落ちた顔のどこかに、漂っている種類の人であった。が、同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映が、もの思わしげな陰影を落していた。私は先達ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶い光を放っている、大きな真珠のネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。…… 「どうです、この銅版画は。築地居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗も相当に面白く出来ているようです。」 子爵は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。私は頷いた。雲母のような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗を翻した蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重めいた松の立木――そこには取材と手法とに共通した、一種の和洋折衷が、明治初期の芸術に特有な、美しい調和を示していた。この調和はそれ以来、永久に我々の芸術から失われた。いや、我々が生活する東京からも失われた。私が再び頷きながら、この築地居留地の図は、独り銅版画として興味があるばかりでなく、牡丹に唐獅子の絵を描いた相乗の人力車や、硝子取りの芸者
底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card67.html)