奇遇

作者:芥川龍之介 約11分で読めます

奇遇を縦書きで読む(Textfall)

編輯者 支那へ旅行するそうですね。南ですか? 北ですか? 小説家 南から北へ周るつもりです。 編輯者 準備はもう出来たのですか? 小説家 大抵出来ました。ただ読む筈だった紀行や地誌なぞが、未だに読み切れないのに弱っています。 編輯者 (気がなさそうに)そんな本が何冊もあるのですか? 小説家 存外ありますよ。日本人が書いたのでは、七十八日遊記、支那文明記、支那漫遊記、支那仏教遺物、支那風俗、支那人気質、燕山楚水、蘇浙小観、北清見聞録、長江十年、観光紀游、征塵録、満洲、巴蜀、湖南、漢口、支那風韻記、支那―― 編輯者 それをみんな読んだのですか? 小説家 何、まだ一冊も読まないのです。それから支那人が書いた本では、大清一統志、燕都遊覧志、長安客話、帝京―― 編輯者 いや、もう本の名は沢山です。 小説家 まだ西洋人が書いた本は、一冊も云わなかったと思いますが、―― 編輯者 西洋人の書いた支那の本なぞには、どうせ碌な物はないでしょう。それより小説は出発前に、きっと書いて貰えるでしょうね。 小説家 (急に悄気る)さあ、とにかくその前には、書き上げるつもりでいるのですが、―― 編輯者 一体何時出発する予定ですか? 小説家 実は今日出発する予定なのです。 編輯者 (驚いたように)今日ですか? 小説家 ええ、五時の急行に乗る筈なのです。 編輯者 するともう出発前には、半時間しかないじゃありませんか? 小説家 まあそう云う勘定です。 編輯者 (腹を立てたように)では小説はどうなるのですか? 小説家 (いよいよ悄気る)僕もどうなるかと思っているのです。 編輯者 どうもそう無責任では困りますなあ。しかし何しろ半時間ばかりでは、急に書いても貰えないでしょうし、……… 小説家 そうですね。ウェデキンドの芝居だと、この半時間ばかりの間にも、不遇の音楽家が飛びこんで来たり、どこかの奥さんが自殺したり、いろいろな事件が起るのですが、――御待ちなさいよ。事によると机の抽斗に、まだ何か発表しない原稿があるかも知れません。 編輯者 そうすると非常に好都合ですが―― 小説家 (机の抽斗を探しながら)論文ではいけないでしょうね。 編輯者 何と云う論文ですか? 小説家 「文芸に及ぼすジャアナリズムの害毒」と云うのです。 編輯者 そんな論文はいけません。 小説家 これはどうですか? まあ、体裁の上では小品ですが、

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底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card76.html)