葱

作者:芥川龍之介 約14分で読めます

葱を縦書きで読む(Textfall)

おれは締切日を明日に控えた今夜、一気呵成にこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

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神田神保町辺のあるカッフェに、お君さんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人らしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪をさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連の間には、夙に通俗小説と云う渾名が出来ているらしい。もっとも渾名にはまだいろいろある。簪の花が花だから、わすれな草。活動写真に出る亜米利加の女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。ETC. ETC.  この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。これはお松さんと云って、器量は到底お君さんの敵ではない。まず白麺麭と黒麺麭ほどの相違がある。だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。お松さんは勿論、この収入の差に平かなるを得ない。その不平が高じた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。  ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子にいた外国語学校の生徒らしいのが、巻煙草を一本啣えながら、燐寸の火をその先へ移そうとした。所が生憎その隣の卓子では、煽風機が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬へ微笑を浮べながら、「難有う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔を発したらしい声を出した。――

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底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card106.html)