お律と子等と
作者:芥川龍之介 約43分で読めます
一
雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。 「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報を打ってくれ。」 「そんなに悪いの?」 洋一は思わず大きな声を出した。 「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」 洋一は父の言葉を奪った。 「戸沢さんは何だって云うんです?」 「やっぱり十二指腸の潰瘍だそうだ。――心配はなかろうって云うんだが。」 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。 「しかしあしたは谷村博士に来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」 「ええ、知っています。――お父さんはどこかへ行くの?」 「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅川の叔母さんが来ているぜ。」 賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。愚図愚図している場合じゃない――そんな事もはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上ると、真鍮の手すりに手を触れながら、どしどし梯子を下りて行った。 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後を向けたまま、もう入口に直した足駄へ、片足下している所だった。 「旦那。工場から電話です。今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。 「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」 電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな洋傘を開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、か
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card124.html)