吉良上野の立場
作者:菊池寛 約20分で読めます
一
内匠頭は、玄関を上ると、すぐ、 「彦右衛と又右衛に、すぐ来いといえ」といって、小書院へはいってしまった。 (そらっ! また、いつもの癇癪だ)と、家来たちは目を見合わせて、二人の江戸家老、安井彦右衛門と藤井又右衛門の部屋へ走って行った。 内匠頭は、女どもに長上下の紐を解かせながら、 「どうもいかん! また物入りだ! しょうがない!」と、呟いて、袴を脱ぎ捨てると、 「二人に早く来るよう、いって参れ!」と催促した。 しばらくすると、安井彦右衛門が、急ぎ足にはいって来て、 「何か御用で!」といって、座った。 「又右衛は?」 「お長屋におりますから、すぐ参ります」 「女ども、あちらへ行け! 早く行け!」と、内匠頭が手を振った。女は半分畳んだ袴、上下を、あわてて抱いて退ってしまった。 「例の京都からの勅使が下られるが、また接待役だ」 「はっ!」 「物入りだな」 「しかし、御名誉なことで、仕方がありませんな」 「そりゃ、仕方がないが……」と、内匠頭がいったとき、藤井又右衛門が、 「遅くなりました」といって、はいって来た。 「又右衛門、公儀から今度御下向の勅使の御馳走役を命ぜられたが、それについて相談がある」 「はい」 「この前――天和三年か、勤めたときには、いくら入費がかかったか?」 「ええ……」二人は、首を傾けた。藤井が、 「およそ、四百両となにがしと思いますが」 「そのくらいでした」と、安井が頷いた。 「四百両か! その時分と今とは物価が違っているから、四百両では行くまいな。伊東出雲にきくと、あいつの時は、千二百両かかったそうだ」 「あの方のお勤めになりましたのは、元禄十年――たしか十年でしたな」 「そうだ」 「あのとき、千二百両だといたしますと、今日ではどんなに切りつめても、千両はかかりましょうな」 内匠頭は、にがい顔をした。 「そんなにかかっちゃ、たまらんじゃないか。わしは、七百両ぐらいでどうにか上げようと思う」 「七百両!」と、二人は首を傾けた。 「少なすぎるか」 「さあ!」 二人は、浅野が小大名として、代々節倹している家風を知っていたし、内匠頭の勘定高い性質も十分知っていたので、 「それで、結構でしょう」と、いうほかはなかったが、伊東出雲とて、少しも裕福でないのに、その伊東が千二百両かけたとしたら、御当家が七百両では少しどうかしらと
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
入力:真先芳秋 校正:大野晋
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card487.html)