蘭学事始
作者:菊池寛 約26分で読めます
一
杉田玄白が、新大橋の中邸を出て、本石町三丁目の長崎屋源右衛門方へ着いたのは、巳刻を少し回ったばかりだった。 が、顔馴染みの番頭に案内されて、通辞、西善三郎の部屋へ通って見ると、昨日と同じように、良沢はもうとっくに来たと見え、悠然と座り込んでいた。 玄白は、善三郎に挨拶を済すと、良沢の方を振り向きながら、 「お早う! 昨日は、失礼いたし申した」と、挨拶した。 が、良沢は、光沢のいい総髪の頭を軽く下げただけで、その白皙な、鼻の高い、薄菊石のある大きい顔をにこりともさせなかった。 玄白は、毎度のことだったが、ちょっと嫌な気がした。 彼は、中津侯の医官である前野良沢の名は、かねてから知っていた。そして、その篤学の評判に対しても、かなり敬意を払っていた。が、親しく会って見ると、不思議にこの人に親しめなかった。 彼は、今までに五、六度も、ここで良沢と一座した。去年カピタンがここの旅館に逗留していた時にも、二度ばかり落ち合ったことがある。今年も月の二十日に、カピタンが江戸に着いてから今日で七日になる間、玄白は三、四度も、良沢と一座した。 それでいて、彼はどうにもこの人に親しめなかった。それかといって、彼は良沢を嫌っているのでもなければ、憎んでいるのでもなかった。ただ、一座するたびに、彼は良沢から、妙な威圧を感じた。彼は、良沢と一座していると、良沢がいるという意識が、彼の神経にこびりついて離れなかった。良沢の一挙一動が気になった。彼の一顰一笑が気になった。彼が気にしまいとすればするほど、気になって仕方がなかった。 それだのに、相手の良沢が、自分のことなどはほとんど眼中に置いていないような態度を見ると、玄白は良沢に対する心持を、いよいよこじらせてしまわずにはおられなかった。 長崎表での蘭館への出入は、常法があって、かなり厳しく取り締られていたが、カピタンが江戸に逗留中の旅館であるこの長崎屋への出入は、しばらくの間のこととて、自然何の構もなき姿であった。 従って、オランダ流の医術、本草、物産、究理の学問に志ある者を初め、好事の旗本富商の輩までが、毎日のように押しかけていた。 ことに御医術の野呂玄丈や、山形侯の医官安富寄碩、同藩の中川淳庵、蔵前の札差で好事の名を取った青野長兵衛、讃岐侯の浪人平賀源内、御坊主の細井其庵、御儒者の大久保水湖などの顔が見えぬことは
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
入力:真先芳秋 校正:丹羽倫子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card497.html)