ある抗議書
作者:菊池寛 約29分で読めます
司法大臣閣下。 少しの御面識もない無名の私から、突然かかる書状を、差上げる無礼をお許し下さい。私は大正三年五月二十一日千葉県千葉町の郊外で、兇悪無残な強盗の為に惨殺されました角野一郎夫妻の肉親のものでございます。即ち一郎妻とし子の実弟であります。私の姉夫婦の悲惨な最期は、当時東京の各新聞にも精しく報道されましたから、『千葉町の夫婦殺し』なる事件は、閣下の御記憶の中にも残って居ることと存じます。私は肉親の姉が受けた悲惨な運命を、回想する度ごとに、今でも心身を襲う戦慄を抑えることは出来ません。人間の女性の中で姉ほどむごい死方、否殺され方をした者はないと思いますと、私は今でも胸の中が掻き廻わされるように思います。私は、当時の色々な記憶を頭の中に浮べることさえ、不快に思われます。が、私は此の書状を以て、申上ぐる事の前提として、当時の事をちょっと申上げて置かなければなりません。 私の義兄の角野一郎は、大正三年の三月迄東京で雑誌記者を致して居りました。が、その頃痼疾の肺がだんだん悪くなりかけましたので、転地療養の為、妻の実家即ち私の家の所在地なる千葉町へ参ったのであります。そして、私の父母と相談の上で、海に近い郊外に六畳に四畳半に二畳の小さい家を借りまして、そこで病を養うことになったのであります。私の父母は、今迄東京に住んで居た為に、月に一、二度しか逢う機会のなかった姉が、つい手近に移って来た為に、毎日のように顔を合わせることが出来るのを非常に欣んで居たようでありました。幸い義兄の病気も、夏に向うに連れて段々快方に向うようで、一夏養生を続けたならば健康を恢復するだろうと姉夫婦も私も私達の父母も、愁眉を開いて居たのでありました。が、こうした小康を欣んで居た時、あの怖ろしい運命が姉夫婦を襲いかけて居たのであります。 忘れも致しません。それは大正三年の五月二十一日の夜と申しても、正確に云えば、翌二十二日午前の四時頃でありました。私の家の表戸を割れるように烈しく乱打するものがありました。私が驚いて戸を細目に明けますと、警察署の印の付いた提灯が眼に付きました。私は巡査か、でなければ探偵だと思いましたので、何事が起ったのかと胸をとどろかせました。が、その男は巡査でもなく探偵でもなく法被を着た警察の小使らしい男なのです。その男は私の戸を開けるのも待たず、息をはずませながら、 「此方は
底本:「日本探偵小説全集11 名作集1」創元推理文庫、東京創元社
入力:大野晋 校正:noriko saito
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1341.html)