賤ヶ岳合戦

作者:菊池寛 約24分で読めます

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清洲会議之事

天正十年六月十八日、尾州清洲の植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。  この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣惟任日向守光秀の反逆に依って倒れ、その長子三位中将信忠も亦、二条の城に於て、父と運命を共にした。当時、織田の長臣柴田修理亮勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津に在陣中であった。本能寺の変が報ぜられたのは、同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の周章は一方でなく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫氏政と合戦中であったが、忽ち媾和して、尾州長島の居城に帰った。更に森勝蔵長勝は、上杉家と争って居たのだが、信濃川中島へ退き松本を経て、美濃に退いて居た。さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻であるが、五日の朝まで、信長生害の事を秘して、終に毛利との媾和に成功した。和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎宝寺天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の遺した事業に対し、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、変に応じて上洛を期したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児功臣多数が存する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。遺児の中何人をして、信長の跡に据えるかと云うことが大問題であった。さて信長信忠の血を享けて居る者には、次男信雄、三男信孝及び、信忠の子三法師丸がある。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の題目であった。植原館の大広間、信雄信孝等の正面近く、角柱にもたれて居るのは勝家である。勝家の甥三人も柱の近くに坐した。秀吉は縁に近く、池田武蔵入道勝入、丹羽五郎左衛門尉長秀等以下夫々の座に着いた。広間の庭は、織田家の侍八百人余り、勝家の供侍三百余と共に、物々しい警固だつた。一座の長老勝家、先ず口を開いて、織田家の御世嗣には御利発の三七信孝殿を取立参らせるに如く

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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
入力:大野晋、Juki、網迫 校正:土屋隆
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1361.html)