一足お先に

作者:夢野久作 約1時間10分で読めます

一足お先にを縦書きで読む(Textfall)

一

……聖書に曰く「もし汝の右の眼、なんじを罪に陥さば、抉り出してこれを棄てよ……もし右の手、なんじを罪に陥さばこれを断り棄てよ。蓋、五体の一つを失うは、全身を地獄に投げ入れらるるよりは勝れり」と……。 ……けれどもトックの昔に断り棄てられた、私の右足の幽霊が私に取り憑いて、私に強盗、強姦、殺人の世にも恐ろしい罪を犯させている事がわかったとしたら、私は一体どうしたらいいのだろう。 ……私は悪魔になってもいいのかしら……。

右の膝小僧の曲り目の処が、不意にキリキリと疼み出したので、私はビックリして跳ね起きた。何かしら鋭い刃物で突き刺されたような痛みであった……  ……と思い思い、半分夢心地のまま、そのあたりと思う処を両手で探りまわしてみると……  ……私は又ドキンとした。眼がハッキリと醒めてしまった。  ……私の右足が無い……  私の右足は股の付根の処からスッポリと消失せている。毛布の上から叩いても……毛布をめくっても見当らない。小さな禿頭のようにブルブル震えている股の切口と、ブクブクした敷蒲団ばかりである。  しかし片っ方の左足はチャンと胴体にくっ付いている。縒れ縒れのタオル寝巻の下に折れ曲って、垢だらけの足首を覗かせている。それだのに右足はいくら探しても無い。タッタ今飛び上るほど疼んだキリ、影も形も無くなっている。  これはどうした事であろう……怪訝しい。不思議だ。  私はねぼけ眼をこすりこすり、そこいらを見まわした。  森閑とした真夜中である。  黒いメリンスの風呂敷に包まった十燭の電燈が、眼の前にブラ下がっている。  窓の外には黒い空が垂直に屹立っている。  その電燈の向うの壁際にはモウ一つ鉄の寝台があって、その上に逞しい大男が向うむきに寝ている。脱けはだかったドテラの襟元から、半出来の龍の刺青をあらわして、まん中の薄くなったイガ栗頭と、鬚だらけの達磨みたいな横顔を見せている。  その枕元の茶器棚には、可愛い桃の小枝を挿した薬瓶が乗っかっている。妙な、トンチンカンな光景……。  ……そうだ。私は入院しているのだ。ここは東京の築地の奎洋堂という大きな外科病院の二等室なのだ。向うむきに寝ている大男は私の同室患者で、青木という大連の八百屋さんである。その枕元の桃の小枝は、昨日私の妹の美代子が、見舞いに来た時に挿して行ったものだ……。  ……こんな

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底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:山本奈津恵
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2111.html)