謡曲黒白談

作者:夢野久作 約7分で読めます

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謡曲嫌いの事

世の中には謡曲嫌いと称する人が大層多くて、到る処謡曲の攻撃を為て廻わって、甚だしきに到っては謡曲亡国論なぞを唱える人がある。それ程でなくとも、謡曲が始まるとすぐにお尻をモジモジさせて、やがて妙な用事を思い出して御免を蒙る程度の人に到っては、浜の真砂の類限りなく、殆ど十中九人はそうだと云っても差し支えはあるまいと思う。現に自分もこれを幾度となく、しかも深刻に経験した一人で、こんな人々は只拙者の謡いだけが嫌いなのかも知れないが、とにかくその中にも心底から嫌いな人も少なくはなかったろうと自惚れているのである。そんな人々に、何故貴方は謡曲がお嫌いですかと聞くと、誰でも先ず第一に、私には解かりませんからと云う。成る程、これも無理もなかろう。謡曲の中でも比較的芝居がかりに出来ている鉢の木、安宅等ですら、処々三四行乃至十四行宛要領の得悪い文句が挿まっていて、習う本人のみならず黒人の先生方でも何だか解からぬまま唸っているのが多く、ましてその他の曲に到っては全部雑巾のように古びた黒い寄せ文句で出来上っているのだから、局外者が聞いて訳が解かりかねて面白くないのも尤もな事と思われる。  けれ共何とかして謡曲の御利益を納得させて、あわよくば一曲御所望を云わせてやろうと思う甲種熱心家が「でも高尚ではありませんか」と切り込むと、その返事は大抵「でもあの声が……」と来る。ここに到って並大抵の天狗様ならば一遍にギャフンと参いって、それなり生唾を飲み込んで我慢するところであるが、併し慢性の超弩級大天狗になるとこれ位の逆撃は然して痛痒を感じない。却てこれを怪しからぬという面もちで、直ちに第三発の十六吋を撃ち出す。 「ハハア。それはそうでしょう、まだ妙味を御存じないから。あの声というものは一朝一夕で出る声ではありません。他の音曲では浮いた声があっても差し支えありませぬが、謡曲では決してそんな声を用いる事を許しません。ですから他の音曲は面白くても賤しく、謡曲は面白くなくても高尚なのです。この声を出すには、先ずこんな風に正座して身心を整斉虚名ならしめ、気海丹田に力をこう籠めて全身に及ぼし、心広く体胖かに、即ち至誠神明に通ずる底の神気を以て朗々と吟誦するのです。ですから一句の裡に松影婆娑たる須磨の浦を現わし、一節の裡に万人の袖を濡らす事が出来るのです」  例えばこういう風に直ぐにも

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底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:小林徹
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card2143.html)