納豆合戦

作者:菊池寛 約6分で読めます

納豆合戦を縦書きで読む(Textfall)

一

皆さん、あなた方は、納豆売の声を、聞いたことがありますか。朝寝坊をしないで、早くから眼をさましておられると、朝の六時か七時頃、冬ならば、まだお日様が出ていない薄暗い時分から、 「なっと、なっとう!」と、あわれっぽい節を付けて、売りに来る声を聞くでしょう。もっとも、納豆売は、田舎には余りいないようですから、田舎に住んでいる方は、まだお聞きになったことがないかも知れませんが、東京の町々では毎朝納豆売が、一人や二人は、きっとやって来ます。  私は、どちらかといえば、寝坊ですが、それでも、時々朝まだ暗いうちに、床の中で、眼をさましていると、 「なっと、なっとう!」と、いうあわれっぽい女の納豆売の声を、よく聞きます。  私は、「なっと、なっとう!」という声を聞く度に、私がまだ小学校へ行っていた頃に、納豆売のお婆さんに、いたずらをしたことを思い出すのです。それを、思い出す度に、私は恥しいと思います。悪いことをしたもんだと後悔します。私は、今そのお話をしようと思います。  私が、まだ十一二の時、私の家は小石川の武島町にありました。そして小石川の伝通院のそばにある、礫川学校へ通っていました。私が、近所のお友達四五人と、礫川学校へ行く道で、毎朝納豆売の盲目のお婆さんに逢いました。もう、六十を越しているお婆さんでした。貧乏なお婆さんと見え、冬もボロボロの袷を重ねて、足袋もはいていないような、可哀そうな姿をしておりました。そして、納豆の苞を、二三十持ちながら、あわれな声で、 「なっと、なっとう!」と、呼びながら売り歩いているのです。杖を突いて、ヨボヨボ歩いている可哀そうな姿を見ると、大抵の家では買ってやるようでありました。  私達は初めのうちは、このお婆さんと擦れ違っても、誰もお婆さんのことなどはかまいませんでしたが、ある日のことです。私達の仲間で、悪戯の大将と言われる豆腐屋の吉公という子が、向うからヨボヨボと歩いて来る、納豆売りのお婆さんの姿を見ると、私達の方を向いて、 「おい、俺がお婆さんに、いたずらをするから、見ておいで。」と言うのです。  私達はよせばよいのにと思いましたが、何しろ、十一二という悪戯盛りですから、一体吉公がどんな悪戯をするのか見ていたいという心持もあって、だまって吉公の後からついて行きました。  すると吉公はお婆さんの傍へつかつかと進んで行

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底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社
入力:林幸雄 校正:鈴木厚司
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card3033.html)