秋山図

作者:芥川龍之介 約13分で読めます

秋山図を縦書きで読む(Textfall)

「――黄大癡といえば、大癡の秋山図をご覧になったことがありますか?」  ある秋の夜、甌香閣を訪ねた王石谷は、主人の惲南田と茶を啜りながら、話のついでにこんな問を発した。 「いや、見たことはありません。あなたはご覧になったのですか?」  大癡老人黄公望は、梅道人や黄鶴山樵とともに、元朝の画の神手である。惲南田はこう言いながら、かつて見た沙磧図や富春巻が、髣髴と眼底に浮ぶような気がした。 「さあ、それが見たと言って好いか、見ないと言って好いか、不思議なことになっているのですが、――」 「見たと言って好いか、見ないと言って好いか、――」  惲南田は訝しそうに、王石谷の顔へ眼をやった。 「模本でもご覧になったのですか?」 「いや、模本を見たのでもないのです。とにかく真蹟は見たのですが、――それも私ばかりではありません。この秋山図のことについては、煙客先生(王時敏)や廉州先生(王鑑)も、それぞれ因縁がおありなのです」  王石谷はまた茶を啜った後、考深そうに微笑した。 「ご退屈でなければ話しましょうか?」 「どうぞ」  惲南田は銅檠の火を掻き立ててから、慇懃に客を促した。

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元宰先生(董其昌)が在世中のことです。ある年の秋先生は、煙客翁と画論をしている内に、ふと翁に、黄一峯の秋山図を見たかと尋ねました。翁はご承知のとおり画事の上では、大癡を宗としていた人です。ですから大癡の画という画はいやしくも人間にある限り、看尽したと言ってもかまいません。が、その秋山図という画ばかりは、ついに見たことがないのです。 「いや、見るどころか、名を聞いたこともないくらいです」  煙客翁はそう答えながら、妙に恥しいような気がしたそうです。 「では機会のあり次第、ぜひ一度は見ておおきなさい。夏山図や浮嵐図に比べると、また一段と出色の作です。おそらくは大癡老人の諸本の中でも、白眉ではないかと思いますよ」 「そんな傑作ですか? それはぜひ見たいものですが、いったい誰が持っているのです?」 「潤州の張氏の家にあるのです。金山寺へでも行った時に、門を叩いてご覧なさい。私が紹介状を書いて上げます」  煙客翁は先生の手簡を貰うと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵している家ですから、そこへ行けば黄一峯の外にも、まだいろいろ歴代の墨妙を見ることができる

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底本:「日本文学全集28芥川龍之介集」集英社
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