蠅
作者:横光利一 約6分で読めます
一
真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上った。
二
馬は一条の枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背の老いた馭者の姿を捜している。 馭者は宿場の横の饅頭屋の店頭で、将棋を三番さして負け通した。 「何に? 文句をいうな。もう一番じゃ。」 すると、廂を脱れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。
三
宿場の空虚な場庭へ一人の農婦が馳けつけた。彼女はこの朝早く、街に務めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿った三里の山路を馳け続けた。 「馬車はまだかのう?」 彼女は馭者部屋を覗いて呼んだが返事がない。 「馬車はまだかのう?」 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。 「馬車はまだかの?」 「先刻出ましたぞ。」 答えたのはその家の主婦である。 「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早よ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」 農婦は性急な泣き声でそういう中に、早や泣き出した。が、涙も拭かず、往還の中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。 「二番が出るぞ。」 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛を吊り上げた。 「出るかの。直ぐ出るかの。悴が死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」 「桂馬と来たな。」 「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」 「二番が出るわい。」と馭者はぽんと歩を打った。 「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。悴が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」
四
野末の陽炎の中から、種蓮華を叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。 「持とう。」 「何アに。」 「重たかろうが。」 若者は黙っ
底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
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