火
作者:横光利一 約13分で読めます
一
初秋の夜で、雌のスイトが縁側の敷居の溝の中でゆるく触角を動かしていた。針仕事をしている母の前で長火鉢にもたれている子は頭をだんだんと垂れた。鉄壜の手に触れかかると半分眼を開けて急いで頭を上げた。 「もうお寝。」 母は縫目をくけながら子を見てそういった。子は黙って眼を大きく開けると再び鉄壜の蓋の取手を指で廻し始めた。母はまたいった。 「明日また遅れると先生に叱られるえ。」 子はやはり黙っていた。そして長らくして、 「眠たいわア。」といった。 「そうやでお眠っていうのやないの。」 「いやや。」 「お可しい子やな、早ようお眠んかいな。」 子は立上って母の肩の上へ負われるようにのしかかると、暫く静にしていたが、その中に両足で畳を蹴り飛び上った。母は前へ蹲むようにして「重たいがな、これ、針でつくえ。」肩の子を見向きながらいった。子は再び静になった。 「ええ、お母さん、眠たいわア。」 「そやでお眠たらええやないか、重たい重たい。」 子は「いやーや」というと母の肩から辷り下りて膝の上へ顔を埋めた。 「あぶないがな、針が刺っているやないか。」 母は膝の上の布切を前の方へ押しやった。子の頭の頂から首条へかけて片手で撫手下ろしながら低い声で、 「ほんとにもうお寝、え。」といった。 「お母さんも寝ないや。」 「人が笑うわ、九つもなってるくせに一人で寝んなんて。」そして母は些っと黙っていたが、「お前の頭はほんとうにええ格好や。」と呟いた。 母も子も黙っていた。隣家から酒気を含んだ高声が聞えて来た。子は夕暮前に、井戸傍で隣家の主人が鶏をつぶしていたのを眼に浮べた。 「お母さん、お隣りのはな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。 「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い障子の開く音がすると、縁側の処へ近所の兼助という男が赤い顔をして立っていた。 「お里さん、御馳走だすぜ、さアお出でやす。」そう男がいって子供を抱く時のように両手を出して一度振るとひょろひょろとした。 母は微笑って「え、大きに。」といった。 「さア、早ようやなけりゃ駄目まへんぜ。」 「この子がいますで後ほどまたおよばれしますわ。」と母はいった。 「何アに、米さんは一人寝せときゃええさ、なア米さん、独人り寝てるわのう。」と男は顔を
底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
入力:大野晋 校正:田尻幹二
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card905.html)