御身
作者:横光利一 約20分で読めます
一
末雄が本を見ていると母が尺を持って上って来た。 「お前その着物をまだ着るかね。」 「まだ着られるでしょう。」 彼は自分の胸のあたりを見て、 「何ぜ?」と訊き返すと、母はやはり彼の着物を眺めながら、 「赤子のお襁褓にしようかと思うて。」と答えた。 「赤子って誰の?」 「姉さんに赤子が出来るのや。」母は何ぜだか普通の顔をしていった。 彼は姉にそんなことがあるのかと思うと、何ぜか顔が赧らんだ。しかし、全く嬉しくなった。 「ほんとうか?」 「もうその着物いらんやろ。代りのを作らえてあげるで解こうな。」 「ほんとうに出来るのか。」 母は答えずにそのまま下へ降りてしまった。彼はちょっと腹が立った。が、その腹立たしさの中から微笑がはみ出るように浮んで来た。いくら顔をひき締めてみても駄目だった。 彼と姉とは二人姉弟で、姉は六年前に人妻になっていた。それにまだ子供は一人もなかった。
二
晴れた日、彼は山を越して姉のおりかの家へ行った。赤子のことを訊くのが羞しかったので黙って時々気付かれぬように姉の帯の下を見た。しかし、彼の眼では分らなかった。ただ何となく姉は生々としていた。姉は間もなく裏の山へ行こうといい出した。二人は山へ来ると蘚の上へ足を投げ出して坐った。真下に湖が見えた。錆色の帆が一点水平線の上にじっとしていた。深い下の谷間からは木を挽く音が聞えて来た。 「ボケを一本ひいて帰ろ。もう直き花が咲くえ。」 姉はそういいながら立って雌松林の方へ登っていった。彼はひとり長々と仰向きに寝て空を見ていた。長い間姉と二人でこういう所へ来てこういう風に遊んだことはなかった。彼は姉がたいへんに好きであった。 「こいつ、堅いわア。」と姉の声が頭の上でした。 彼が振り返って姉の方を見ると、姉は丁度躑躅をひき抜こうとしている両肱を下腹にあてがって後へ反り返ろうとしている所であった。彼は姉の大切な腹の子供に気がついて跳ね起きた。 「よせ。」 彼は馳けていって姉を押しのけると自分でその躑躅をひいてみた。根はなかなか堅かった。 「堅いやろ。二人かかるとええわ。」 そう姉はいってまた躑躅に手をかけようとした。 「行こう行こう。」 彼が姉の手を持ってもとの所へ戻ろうとすると、姉は未練そうに後を見返りながら、 「もうじき綺麗な花が咲く
底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
入力:大野晋 校正:しず
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card908.html)