三国志 群星の巻

作者:吉川英治 約4時間で読めます

三国志 群星の巻を縦書きで読む(Textfall)

偽忠狼心

曹操を搦めよ。  布令は、州郡諸地方へ飛んだ。  その迅速を競って。  一方――  洛陽の都をあとに、黄馬に鞭をつづけ、日夜をわかたず、南へ南へと風の如く逃げてきた曹操は、早くも中牟県(河南省中牟・開封―鄭州の中間)――の附近までかかっていた。 「待てっ」 「馬をおりろ」  関門へかかるや否や、彼は関所の守備兵に引きずりおろされた。 「先に中央から、曹操という者を見かけ次第召捕れと、指令があった。そのほうの風采と、容貌とは人相書にはなはだ似ておる」  関の吏事は、そういって曹操が何と云いのがれようとしても、耳を貸さなかった。 「とにかく、役所へ引ッ立てろ」  兵は鉄桶の如く、曹操を取り囲んで、吟味所へ拉してしまった。  関門兵の隊長、道尉陳宮は、部下が引っ立ててくる者を見ると、 「あっ、曹操だ! 吟味にも及ばん」と、一見して云いきった。  そして部下の兵をねぎらって彼がいうには、 「自分は先年まで、洛陽に吏事をしておったから、曹操の顔も見覚えている。――幸いにも生擒ったこの者を都へ差立てれば、自分は万戸侯という大身に出世しよう。お前たちにも恩賞を頒ってくれるぞ。前祝いに、今夜は大いに飲め」  そこで、曹操の身はたちまち、かねて備えてある鉄の檻車にほうりこまれ、明日にも洛陽へ護送して行くばかりとなし、守備の兵や吏事たちは、大いに酒を飲んで祝った。  日暮れになると、酒宴もやみ、吏事も兵も関門を閉じて何処へか散ってしまった。曹操はもはや、観念の眼を閉じているもののように、檻車の中によりかかって、真暗な山谷の声や夜空の風を黙然と聴いていた。  すると、夜半に近い頃、 「曹操、曹操」  誰か、檻車に近づいてきて、低声に呼ぶ者があった。  眼をひらいて見ると、昼間、自分をひと目で観破った関門兵の隊長なので、曹操は、 「何用か」  嘯く如く答えると、 「おん身は都にあって、董相国にも愛され、重く用いられていたと聞いていたが、何故に、こんな羽目になったのか」 「くだらぬことを問うもの哉。燕雀なんぞ鴻鵠の志を知らんやだ。――貴様はもうおれの身を生擒っているんじゃないか。四の五のいわずと都へ護送して、早く恩賞にあずかれ」 「曹操。君は人を観る明がないな。好漢惜しむらく――というところか――」 「なんだと」 「怒り給うな。君がいたずらに人を軽んじるから一言酬いたのだ

続きを読む — 三国志 群星の巻|Textfall

底本:「三国志(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)