三国志 孔明の巻

作者:吉川英治 約5時間で読めます

三国志 孔明の巻を縦書きで読む(Textfall)

関羽千里行

時刻ごとに見廻りにくる巡邏の一隊であろう。  明け方、まだ白い残月がある頃、いつものように府城、官衙の辻々をめぐって、やがて大きな溝渠に沿い、内院の前までかかってくると、ふいに巡邏のひとりが大声でいった。 「ひどく早いなあ。もう内院の門が開いとるが」  すると、ほかの一名がまた、 「はて。今朝はまた、いやにくまなく箒目立てて、きれいに掃ききよめてあるじゃないか」 「いぶかしいぞ」 「なにが」 「奥の中門も開いている。番小屋には誰もいない。どこにもまるで人気がない」  つかつか門内へ入っていったのが、手を振って呶鳴った。 「これやあ変だ! まるで空家だよ!」  それから騒ぎだして、巡邏たちは奥まった苑内まで立ち入ってみた。  するとそこに、十人の美人が唖のように立っていた。 「どうしたのだ? ここの二夫人や召使いたちは」  巡邏がたずねると、美姫のひとりが、黙って北のほうを指さした。  この十美人は、いつか曹操から関羽へ贈り、関羽はそれをすぐ二夫人の側仕えに献上してしまい、以来、そのまま内院に召使われていた者たちであった。  関羽は曹操から贈られた珍貴財宝は、一物も手に触れなかったが、この十美人もまたほかの金銀緞匹と同視して、置き残して去ったものである。  ――その朝、曹操は、虫が知らせたか、常より早目に起きて、諸将を閣へ招き、何事か凝議していた。  そこへ、巡邏からの注進が聞えたのである。 「――寿亭侯の印をはじめ、金銀緞匹の類、すべてを庫内に封じて留めおき、内室には十美人をのこし、その余の召使い二十余人、すべて関羽と共に、二夫人を車へのせて、夜明け前に、北門より立退いた由でございます」  こう聞いて、満座、早朝から興をさました。猿臂将軍蔡陽はいった。 「追手の役、それがしが承らん。関羽とて、何ほどのことやあろう。兵三千を賜らば、即刻、召捕えて参りまする」  曹操は、侍臣のさし出した関羽の遺書をひらいて、黙然と読んでいたが、 「いや待て。――われにこそ無情いが、やはり関羽は真の大丈夫である。来ること明白、去ることも明白。まことに天下の義士らしい進退だ。――其方どもも、良い手本にせよ」  蔡陽は、赤面して、列後に沈黙した。  すると程昱は、彼に代って、 「関羽には三つの罪があります。丞相のご寛大は、却って味方の諸将に不平をいだかせましょう」  と

続きを読む — 三国志 孔明の巻|Textfall

底本:「三国志(四)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)