三国志 桃園の巻
作者:吉川英治 約4時間で読めます
黄巾賊
一
後漢の建寧元年のころ。 今から約千七百八十年ほど前のことである。 一人の旅人があった。 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤しげな容子がなかった。 年の頃は二十四、五。 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。 悠久と水は行く―― 微風は爽やかに鬢をなでる。 涼秋の八月だ。 そしてそこは、黄河の畔の――黄土層の低い断り岸であった。 「おーい」 誰か河でよんだ。 「――そこの若い者ウ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」 小さな漁船から漁夫がいうのだった。 青年は笑くぼを送って、 「ありがとう」と、少し頭を下げた。 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。 「おい、おい、旅の者」 こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。 「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」 青年は、振りかえって、 「はい、どうも」 おとなしい会釈をかえした。 けれどなお、腰を上げようとはしなかった。 そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽かずに眺めていた。 (――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?) 汀の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。 「ああ……、この土も」 青年は、大地の土を、一つかみ掌に掬った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。 「わたしのご先祖も、この河を下って……」 彼は、自分の体に今、脈う
底本:「三国志(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
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