睡蓮

作者:横光利一 約15分で読めます

睡蓮を縦書きで読む(Textfall)

もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。  秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。 「ここですよ。どうですかね」  大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。 「どうしますか。お気に入ったら帰りに地主の家へいって交渉してみますが」 「じゃ、ここにしよう」  こういう話でその土地は地主ともすぐ定められた。そして、その年の暮に家も先ず建って私たちの一家は移って来た。周囲の景色が平凡なため、あたりの特殊性を観察する私の眼も自然に細かく働くようになった。森に包まれている道も人はあまり通らず、ときどき魚屋が通るほどの寂しさだったが、春さきの芽の噴き始めたころから若い夫婦が二人づれで通るのをよく見かけるようになった。この二人は散歩らしく良人の方は両腕を後の帯にさし挟み、樹木を仰ぎ仰ぎゆっくりと楽しそうに歩き、妻君の方はその傍により添うようにして笑顔をいつも湛えていた。私は見ていてこの夫婦には一種特別な光がさしていると思った。二人とも富裕な生活の人とは見えなかったが、劣らず堂々とした立派な風貌で脊も高く、互に強く信じ合い愛し合っている満足した様子が一瞥して感じられた。晴れた日など若葉の間を真直ぐに前方を見ながら来る二人の満ち足りたような姿は、遠くから見ていても稀に見る幸福そうな良い感じだった。今までからも私は楽しげな夫婦を幾つも見て来ているが、この二人ほど、他所見をせず、壊れ

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底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
入力:MAMI 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card1103.html)