厨房日記

作者:横光利一 約36分で読めます

厨房日記を縦書きで読む(Textfall)

こういう事があったと梶は妻の芳江に話した。東北のある海岸の温泉場である。梶はヨーロッパを廻って来て疲れを休めに来ているのだが、避暑客の去った海浜の九月はただ徒らに砂が白く眼が痛い。――  別に面白いことではない。スイスのある都会にあった出来事だ。そのときは丁度ヨーロッパ大戦の最中で、非戦国のスイスは各国の思想家の逃避地のこととて、街は頭ばかりをよせ集めた掃溜みたいなものだ。スイスを一歩外へ出れば現世は血眼の殺し合いだ。良いも悪いもあったものではない。何ぜ殺し合うのか誰も知らぬ。ただもう殺せばそれが正義だ。このようなヨーロッパの知性の全く地に落ちた時、スイスのその街ではシュールリアリズムという心理形式の発会式が行われた。その一団の大将はルーマニア人で詩人だ。一団は発会式に招待する街の有力者全部に招待状を発した。さていよいよその日になってシルクハット、モーニングの市長を初め、紳士淑女が陸続と盛装で会場へ詰めかけて来た。しかし、いつまでたっても会は一向に始まらない。そこで皆はぶつぶつ云い出した。夜はそのままいたずらに更けていくばかりだ。とうとう紳士淑女の怒りは爆発したが、怒ろうにも相手のシュールリアリストは一人も会場に来ていないのだから仕方がない。そのうちに瞞されたと知った一同は怒りの持って行き場もなく不平たらたらでそれぞれ帰っていった。ところが、次ぎの日の新聞には大きくその夜の発会式の写真が一斉に出ていたのだ。つまりそれが発会式なのだ。  梶はそこまで話して妻の顔を見た。 「それからどうしたの」と芳江は訊ねた。 「それだけさ」 「それがどういうことなの。世の中が無茶苦茶になったから、自分たちもそうしたっていうの」 「まアそれでも良い」と梶は云うより仕方がなかった。  梶は友人たちに逢う度にこの同じ話をしてみて相手の顔を眺めてみた。すると、皆黙って真剣な顔になった。中にはだんだん蒼くなるものと、しばらくしてから突然笑い出す者とあった。梶はヨーロッパを廻って来てこの話に一番興味を覚えたのだが、説明の出来る種類の話ではないから黙っていた。強いて説明を附けようとすれば、ドストエフスキイの悪霊の主人公であるところのスタブローギンのある行動の話を持ち出さねばなるまい。その土地第一の資産家の一人息子であるスタブローギンが故郷へ久し振りに帰って来て、街の上流階級の集合場所で、礼儀正し

続きを読む — 厨房日記|Textfall

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
入力:MAMI 校正:平野彩子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card2156.html)