張紅倫

作者:新美南吉 約8分で読めます

張紅倫を縦書きで読む(Textfall)

一

奉天大戦争(一九〇五年)の数日まえの、ある夜中のことでした。わがある部隊の大隊長青木少佐は、畑の中に立っている歩哨を見まわって歩きました。歩哨は、めいぜられた地点に石のようにつっ立って、きびしい寒さと、ねむさをがまんしながら、警備についているのでした。  「第三歩哨、異状はないか」  少佐は小さく声をかけました。  「はっ、異状ありません」  歩哨のへんじが、あたりの空気に、ひくく、こだましました。少佐は、また、歩きだしました。  頭の上で、小さな星が一つ、かすかにまたたいています。少佐はその光をあおぎながら、足音をぬすんで歩きつづけました。  もうすこしいくと、つぎの歩哨のかげが見えようと思われるところで、少佐はどかりと足をふみはずして、こおった土くれをかぶりながら、がたがたがた、どすんと、深いあなの中に落ちこみました。  ふいをくった少佐は、しばらくあなのそこでぼんやりしていましたが、あたりのやみに目もなれ、気もおちついてくると、あなの中のようすがうすうすわかってきました。それは四メートル以上の深さで、そこのほうがひろがっている、水のかれた古井戸だったのです。  少佐は、声を出して歩哨をよぼうとしましたが、まてまて、深い井戸の中のことだから、歩哨のいるところまで、声がとおるかどうかわからない、それに、もし、ロシアの斥候にききつけられたら、むざむざところされるにきまっている、と思いかえし、そのまま、だまってこしをおろしました。  あすの朝になったら、だれかがさがしあてて、ひきあげてくれるだろうと考えながら、まるい井戸の口でしきられた星空を見つめていました。そのうちに、井戸の中があんがいあたたかなので、うとうととねむりだしました。  ふとめざめたときは、もう夜があけていました。少佐はううんとあくびをしながら、赤くかがやいた空を見あげたのち、  「ちょっ、どうしたらいいかな」 と、心の中でつぶやきました。  まもなく、朝やけで赤かった空は、コバルト色になり、やがて、こい水色にかわっていきました。少佐は、だれかさがし出してくれないものかと、待ちあぐんでいましたが、だれもここに井戸があることさえ、気がつかないらしいけはいです。上を見ると、長いのや、みじかいのや、いろいろの形をしたきれぎれの雲が、あとから、あとからと、白く通っていくきりです。  とうとうお昼近く

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底本:「牛をつないだ椿の木」角川文庫、角川書店
入力:もりみつじゅんじ 校正:渥美浩子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/card633.html)