最後の胡弓弾き
作者:新美南吉 約27分で読めます
一
旧の正月が近くなると、竹藪の多いこの小さな村で、毎晩鼓の音と胡弓のすすりなくような声が聞えた。百姓の中で鼓と胡弓のうまい者が稽古をするのであった。 そしていよいよ旧正月がやって来ると、その人たちは二人ずつ組になり、一人は鼓を、も一人は胡弓を持って旅に出ていった。上手な人たちは東京や大阪までいって一月も帰らなかった。また信州の寒い山国へ出かけるものもあった。あまり上手でない人や、遠くへいけない人は村からあまり遠くない町へいった。それでも三里はあった。 町の門ごとに立って胡弓弾きがひく胡弓にあわせ、鼓を持った太夫さんがぽんぽんと鼓を掌のひらで打ちながら、声はりあげて歌うのである。それは何を謡っているのやら、わけのわからないような歌で、おしまいに「や、お芽出とう」といって謡いおさめた。すると大抵の家では一銭銅貨をさし出してくれた。それをうけとるのは胡弓弾きの役目だったので、胡弓弾きがお銭を頂いているあいだだけ胡弓の声はとぎれるのであった。たまには二銭の大きい銅貨をくれる家もあった。そんなときにはいつもより長く歌を謡うのである。 ことし十二になった木之助は小さい時から胡弓の音が好きであった。あのおどけたような、また悲しいような声をきくと木之助は何ともいえないうっとりした気持ちになるのであった。それで早くから胡弓を覚えたいと思っていたが、父が許してくれなかった。それが今年は十二になったというので許しが出たのであった。木之助はそこで、毎晩胡弓の上手な牛飼の家へ習いに通った。まだ電燈がない頃なので、牛飼の小さい家には煤で黒い天井から洋燈が吊り下り、その下で木之助は好きな胡弓を牛飼について弾いた。 旧正月がついにやって来た。木之助は従兄の松次郎と組になって村をでかけた。松次郎は太夫さんなので、背中に旭日と鶴の絵が大きく画いてある黒い着物をき、小倉の袴をはき、烏帽子をかむり、手に鼓を持っていた。木之助はよそ行きの晴衣にやはり袴をはき、腰に握り飯の包みをぶらさげ、胡弓を持っていた。松次郎はもう二度ばかり門附けに行ったことがあるので、一向平気だったが、始めての木之助は恥しいような、誇らしいような、心配なような、妙な気持だった。殊に村を出るまでは、顔を知った人たちにあうたびに、顔がぽっと赧くなって、いっそ大きい風呂敷にでも胡弓を包んで来ればよかったと思った。それは父親が大奮
底本:「新美南吉童話集」岩波文庫、岩波書店
入力:浜野智 校正:浜野智
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/card2304.html)