Nine 第七話

作者:コウケンド 約10分で読めます

Nine 第七話を縦書きで読む(Textfall)

ドレスデンの春は長くて、あいまいだ。 朝の光は薄く、エルベ川の川面に置き忘れた銀紙のように小さく揺れた。柳の芽は黄緑で、指先ほどの大きさ。風が渡ると葉裏が白く反転し、まるでワルツを踊っているかのように左右へお辞儀をした。 台所の窓辺で、ヨハンナが皿を拭いている。白い縁を指先で確かめ、そして布巾で水気を拭き取る。背中はまっすぐだ。いつも通りの動作だが、やや沈黙が多い。リヒャルトは声をかけようとして、やめた。言葉は喉先まで来て、そこから内に戻った。 家族は明日、プラハへ発つ。ロザーリエが劇場と契約したからだ。母も、兄姉たちも一緒に行く。ドレスデンに残るのは、ぼくひとりだった。「学校があるから」と母は言った。ぼくはうなずいた。うなずきながらも、その言葉の真意を探していた。 ――ときどきぼくはある夢を見る。記憶はあいまいだが、小さく揺れるシロツメクサをスケッチする或る男の夢を。 * 新学期。新しい机と椅子は、どれも角が立っている。教科書の紙の匂い。先生の声は黒板で跳ねるが、ぼくの耳にはあまり届かない。スープの湯気、椅子の脚の軋み、姉の笑い声――家の音ばかり思い出す。その度に、懐かしさが胸をしめつける。 * 日曜日の午後、リヒャルトは駅まで歩いた。ホームの端、黒い蒸気が空を曇らせ、金属の匂いが鼻腔に刺さる。車輪の側面が陽に白く光る。――タン、タタン。線路は一定の拍を持っている。プラハに行こう、と口の中で言った。言ってしまうと、体が自然と動く。足は切符売場の列へと向かっていた。 週末の朝、駅。高い窓から陽が入り、木のベンチが蜂蜜色に光る。切符を受け取る。指先にざらつき。切符の数字が小さく震える。胸が先に跳ね、息があとからついてくる。唄うような汽笛、踊る白い雲。馬車が動き出す。ガラス越しに見る畑は、芽生えた麦の緑が均一で、どこか譜面によく似ていた。等間隔で並ぶ線。ぼくの胸もそこに合わせて拍を刻む。 ――一、二、三。向かいに老婦人。毛糸玉は薄紫、編み針は銀。針先がほんの少しだけ光を跳ね返し、その度に小気味いい音を奏でる。 「お若いのに一人かい」 「はい。プラハまで」 それだけの会話だったが、ふいに胸の緊張が解けた。 やがて小駅に停まる。売店の少年が紅茶をカップに注ぎ、甘いパンを籠から出す。砂糖の匂い。温かい湯気。僕は小銭を渡し、窓越しに受け取った。熱が掌へ移る。噛むと、柔らかい。

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