Nine 第二話
作者:コウケンド 約4分で読めます
街の腐敗は、一層目に見えるかたちで進んでいた。ナポレオンが去った後も、市内では銃声の余韻が消えなかった。瓦礫の隙間からは焦げ落ちた灰が立ち込め、兵士が忘れていった軍靴が風に揺れていた。広場の井戸は封鎖され、水は濁り、煙と血の匂いが入り混じっていた。 記録によれば、戦闘全体での死者数は約9万にのぼるという。けれどその数よりも、町の子どもたちの瞳が戦の凄惨さを語っていた。立ち尽くしたまま言葉を失った男たち、手元で衣を繕うふりをしながら黙る女たち。街の人々から、“希望”という言葉が抜け落ちていた。世は新たな"英雄"を求めていた。 ――ワーグナー一家は、幾重もの困難に見舞われながらも、戦火を逃れた。だがそんな一家の中にも、静かに、ただ確かに、火が迫りつつあった。 * 「ヨハンナ……水をおくれ」 夫のカールが言った。布団に埋もれた顔は細く痩せこけ、声は喉の奥で潰れていた。 ヨハンナは黙って水差しを手に取る。カップに注がれた水が、朝の光に青白く揺れた。 「ありがとう」 彼の声はかすれるような弱さだったが、瞳の奥には依然として力が残っていた。 ヨハンナは何も言わず、布団を直してやった。二人の間には、炭のぱちりと鳴る音だけが響いた。その静けさを、上の階から駆けてきた子どもたちの声が破った。 「ママ! アルベルトがマリウスをぶった!」 ロザーリエの叫び。パタパタとした足音が続く。幼い弟たちが泣きながら後を追ってきた。 「ロザーリエ、ありがとう。でも…お父さんが」 ヨハンナは言いかけたが、ロザーリエはすでに父の枕元に駆け寄っていた。 「ロザーリエ、だめ!」 ヨハンナが声を張った。 「お父さんの近くに行ってはだめ!」 ロザーリエは静止し、背を向けたまま言った。 「いやだ。だってパパはロザーリエのパパなのに。なんで近くにいちゃいけないの? そんなの、おかしいよ」 ヨハンナは言葉を失った。目を伏せたまま、自らの掌をぎゅっと握りしめた。弟たちの泣き声も止み、部屋の空気が、張り詰めた。そのとき、カールが口を開いた。 「ようやく、みんなで集まれたね」 その声は、遠くで吹く風のように静かで、暖かかった。 「ロザーリエ」 娘はゆっくり振り向いた。 「パパはね、君を愛してる。それは、ママも、アルベルトも、マリウスも、リヒャルトもみんなだ。だから、ずっと一緒にいたい。心から、そう思ってる」 ロザーリエは