Nine 第九話

作者:コウケンド 約25分で読めます

Nine 第九話を縦書きで読む(Textfall)

ライプツィヒの初夏は、光が高く、朝の空気がよく通った。石畳を打つ足音がやけに響き、街の静けさがかえって意識される。その頃、街角で誰かが言った。 ――ベートーヴェンが亡くなったらしい。リヒャルトは聞き流した。胸は動かない。偉いらしい、遠い、とだけ思った。だが、その話は妙に耳の奥に残った。劇場の裏口から漏れた合唱の一片、楽譜屋の窓に立てかけられた分厚い背表紙、下宿の階段で誰かが口笛でなぞった『運命』の主題 ――灰色の雲間に小石を投げ入れるみたいに、繊細な音が波紋を作っては消えた。 * リヒャルトは17歳になり、トーマスシューレに転入した。初めて校門をくぐる朝、風が低く吹き、校庭の隅の草花が、風に流されるように一方向へ靡いた。 ――そのとき、リヒャルトの頭の中にシロツメクサの像が瞬いた。視界の端に、軍服姿の人物が立っている。手元の紙に素早い線が走り、裾が草の穂を掬う。顔は見えない。繊細な筆致に目を奪われていると、次の瞬間に姿は消えた。 トーマス教会の朝は乾いている。高い窓から射す光は壁を伝い、部屋の隅を淡く照らした。楽譜の匂い、削りたての鉛筆の仄かな香ばしさ、譜面台の微かな軋み。皆が緊張の面持ちで待っていると、不意に扉が開いた。 ヴァインリヒ――第16代目カントルを務める男だ。 身に纏った黒い長衣は飾り気を欠き、折り目に深い影を溜めていた。痩せた頬には静かな皺が刻まれ、生きてきた歳月や経験を物語る。まっすぐで太い眉は、わずかな動きで場の空気を支配する。厳しさの奥に、目元の陰影からかすかな温かさが滲み、鋭さと柔らかさとが同居する。その立ち居姿は、石造りの空間に影と光を同時に呼び込む。冷たく張り詰めた気配の裏に、どこか人を導こうとする静かな熱が潜んでいる。質素であるはずなのに、見る者の心を捉えて離さない。渋さと格調の奥に、色合いの異なる層が折り重なっているようだった。 かつてバッハも務めたこのトーマスシューレの系譜を今に繋ぎ、その重みを背負って立つ者の威厳と風格。ヴァインリヒは伝統そのものの化身のように感じられた。 その目が一瞬リヒャルトを捉えた。胸の奥がきしむ。 「皆さんようこそ、我らがトーマスシューレへ」 依然静かな空気が流れる。緊張は解けない。 「ご存じの通り、当教会は1212年から約600年もの間、数々の歴史を紡いできた。長い間、絶えることなくその伝統を継いできたの

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